2007年4月24日 (火)

京都のKウインド現団長様からコメントいただく

このサイトで回想記事にさせていただいた、京都のKウインド現団長様から、先ほどコメントいただきました。

なんと、うれしや。。。

どうもありがとうございます。

個人的な気持ち、心境などを、その方のアドレスのほうに送らせていただきました。

・・・・・・

ご一報いただき重ねまして、御礼申し上げます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ぼくが勝手に、一方的な思い出を綴ったものであり、またかなり古い記憶に頼った内容です。

ですからとても心配(いろんな意味で)なこともありました。

特にコンクールにまつわる記述。

これをどうやって書き続けるか、を、迷いながら最終回まできてしまいました。

そして現在のKWO。

リアルな皆さんに迷惑ではなかったか、と・・・

・・・・

申し訳ございません。

嘆きはこのへんにさせていただきます。

最後に。

現在のKWO様と、そして寺澤先生のご家族様、ご関係各位様、みなさまに感謝いたします。

そしてご発展を祈念申し上げております。

                                         草々

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2007年4月20日 (金)

寺澤嘉記先生の形見

先日、大変嬉しいことがありました。

ぼくにとって、あまりにも劇的で、夢の中のような出来事。。。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それは、寺澤先生の関係の方からコメントいただいたのをきっかけに、ご家族の方から懐かしいエスクラを送って頂いたのです。

・・・・・・

『 京都のKウインドオーケストラ 』最終回で明かした、ぼくのエスクラの所在。

それは、ぼくが寺澤先生のもとを離れるにあたり、先生に持っていてほしいとお願いし、勝手に残してきた楽器だったのです。

それは、「 また帰ってきます 」の意思表示でもありました。

しかし、20数年をへても、ぼくは京都には帰ることはありませんでした。

先生の手元に残っていた愛器「ノブレ・アルティスト・ビンテージ」。

・・

そして、このほど、ぼくのブログをご覧になっていた先生のご家族がそのことをお知りになり、送って頂いたのです。。。

なんという、ありがたい心遣い。

そして、先生が弟子の方のために残された「教則本」と「演奏会CD」まで同封されていたのです。。。

・・・・・・・・・・・・

ほんとうに、この上ないご配慮いただきまして、重ねまして御礼申し上げます。

先生の形見といたしまして、大切に利用させていただきます。

                              敬具

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2007年3月 4日 (日)

京都のKウインドオーケストラ創設<最終回>

Kウインドのコンクール初舞台は終了した。

・・

順当にいけば、多分、関西には。。。

そして発表。各団体が次々に受賞していく。

そして。

・・・Kウインドオーケストラ、・・・・・銀賞。

吹奏楽団OOO、金賞・・・

関西進出はならなかったのである。

―――――――――――――――――

しかしその2年後。ウインドは見事、京都で第一位となって関西大会出場を果たし、尼崎市吹奏楽団や西宮市吹奏楽団といった全国のトップレベルの楽団とならぶ、関西大会の金賞を受賞するに至るのである。

―――――――――――――――――

(話はもどって)

それから数週間後。

中京区の寺澤先生のご自宅二階のレッスン室。

ぼくは先生に相談、、というより、あるお願いに上った。

『 京都ではなく、ほかの地方で仕事をするから、ウインドを辞めさせていただきたい 』

・・・・

ぼくは、京都を離れて、他地方に生活の場を移す決心をしてしまったのである。

・・

先生は、そのときは目を上げず、うつむいたまま、ポツリとぼくに言われた。

『 仕事ならしゃぁない。 』

 ・・ ・・ ・・   

ぼくは、その時とっさに、こう言った。

『エスクラ、今度、帰ってくるときまで、先生にずっと貸しときます。 』

当時は、ぼくのエスクラをKWOに使ってもらっていたのである。

『うん、、 』

先生はそう言われた。

そして、それが、ぼくが最後に聞いた、先生の声となってしまった。

(長い年月。とうとう、ぼくは先生に、一度もお会いしに行かなかったのである)

・・・それから25年後、長いブランクを経て、ぼくはクラリネットを吹き始める。

平成16年5月のことだった。

そして、その前年。平成15年の9月。

寺澤嘉記先生は、突然倒れられ、52年の生涯を終えらていたのである。

知らなかった。。。

本当にたまたま、関西フィルの方と電話でお話した折に、それを知らされたのである。

・・・・

(お会いしにいけばよかった。)

(もういちど、お会いしたいです。)

・・・

そして最近、ある事でご一緒させていただいた、女流クラリネット奏者の I さんとの会話のなかで、寺澤先生の話題になった。

そのとき、なんと、そのエスクラの話が出たのである。

『!、、そのエスクラ、私、お借りしたことがありますよ。 』

I さんは、寺澤先生から、そのエスクラを一時期、借りられて演奏されたことがあったそうである。

寺澤先生は、そのエスクラを、それはそれは大切にされていたとの事!!

どうもありがとうございます、、、

・・・・・・・・・・・

先生、申し訳ありませんでした。

・・

ご冥福を、お祈りしています。

                      合掌。

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2007年2月10日 (土)

京都のKウインドオーケストラ創設⑮

ともかく、ぼくたちのKウインドは、3ヵ月後のコンクール初参加のステージに向かって、新たなスタートを切った。

しかしもとより、コンクールバンドではないし、それを最大の課題にしてもいなかった。

ただ、本番の一つとして、うちらしい演奏が出来るよう、及ばずながら最大限のことをやっていたつもりである。

連盟や他の団体からは、多分、ウインドはコンクールを最大の目標にしているかの評価をうけていたに違いない。

しかし、ぼくたちにはその意識は毛頭なかった。

・・・

1980 / 第17回京都府吹奏楽コンクール 演奏曲

課題曲 / 行進曲『 オーバー・ザ・ギャラクシー 』 (斉藤高順)

自由曲  / 『 フェスティバルファンファーレマーチ 』 (ニクソン)

・・・・

そして、コンクール日程20日ほど前だったろうか。

京都府の連盟との、ある話し合いがもたれたと記憶している。

これは、連盟からの注釈の内容に他ならなかったとぼくは思う。

腹立たしい、一方的なものだったと記憶する。

「Kウインドはコンクール参加規定に抵触している可能性がある。」

「専門課程出身者が多いので注意している。」

そのときのぼくには、言いがかりとしか思えなかった。

(これらは現在のコンクール事情からは考えられないと思いますが)

・・・・・・・

ぼくたちは、もちろん京都府吹奏楽連盟の規定にのっとって、コンクールに参加している。

コンクール参加者のなかには、禁止されているプロ演奏家はいない。

それは事前に確認したラインでもあり、連盟も承知のはずだと思っていた。

しかし、直前になって、それに反して、、、(中略)。

・・・・・

ぼくはその話し合いには参加しなかったが、あとで聞くところでは、連盟からは「 音楽の先生はプロとみなし、吹奏楽コンクールには参加を認めない 」という新基準が提示されたと、ぼくは記憶している。

打撃だった。

そのコンクールに出場予定のKWOメンバーは約30名少々。

そのうち約9名が音楽科教員だった。

つまり、直前になって、全体の2割以上の、それも主力を欠くことになってしまったのである。

・・・・ぼくたちは、そのことに対し一切、不満を口にしなかった。

ただ、黙々と日々の活動に精進し、改めて、演奏に参加してくれるメンバーを探して、なんとか数人の入団者を獲得、連盟にその旨を報告して了承され、コンクール本番を迎えたのである。

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2006年5月26日 (金)

京都のKウインドオーケストラ創設⑭

Kウインドを取り巻く、というより、それはまず、ぼく自身のまわりに環境の変化として現れていたかもしれない。

とにもかくにも、ぼくたちがコンクールに出場するとわかるや、一変したのである。

そしてそれは、30年ほど前の、京都の吹奏楽事情がいかに閉鎖的だったか、それを物語るものではなかったろうか。

・・・・
ぼくは京都の高校時代、吹奏楽部でクラリネットを吹いていたのだが、その同期のひとりのサックス吹きに、ある時、こういわれたのである。

『 おい、おまえら(ぼくらの楽団のこと)、ええかっこすんな!
プロが何で(吹奏楽)コンクールに出られるんや? 』

けっこう、唐突だった。
ぼくとはお互いになにもかも知り尽くした仲だったから、歯に衣着せない言い方になったのであろう。
ぼくも彼の性格なんて100%分かり抜いている。
だからそのことは、まあ、いいと思っている。

彼は、そのとき別の市民バンドに所属していた。
そして毎年のように、京都代表で、関西大会に出場していたのである。

彼の言ったことは、じつは京都の一般吹奏楽連盟の諸団体も考えていたことのようにも思えるのである。
そのことを、ぼくも後で気が付いたのであるが。

当時は、京都代表として関西コンクールに出られるのは1団体だった。
そして、彼の所属する団体を含めて3団体くらいが代表権を争っていたのである。

それらの団体は、Kウインドのことを、まさに訝(いぶか)っていたのではと思う。

前出の彼は、言葉を続けた。が、こっちの言葉のほうは、ぼくにとって、絶対に彼を許すことのできないものだった。
(以下、もしお聞き苦しい表現だったら許してください。。。)

彼は、ぼくにこう言った
『 ○○(先生の名前!)なんか、なんやあれは!
ドイツから帰ってきたと思ってイチビッてるだけやないか! ・・・ 』

それを聞いたぼくは、もうそのとき何を言って反撃したかまったく覚えていない。
ただ確実に10倍以上にして返したことだけは覚えている。

(つづく)

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2006年5月25日 (木)

京都のKウインドオーケストラ創設⑬

季節は春となり、巷では、いよいよ吹奏楽コンクールのシーズンを迎えようとしていた。

しかし、ぼくたちの楽団は、いつものようにマイペースの活動をしていた。
メンバーのだれからも「 コンクール 」という言葉も出なかったし、意識の中にもまったくなかったと記憶している。

ぼくたちは、プロもアマもなく、音楽を楽しむために集い合った。
また、そのために楽団がつくられ、それに自由意志で参加している。
それ以外の目的も、野望も、欲ばりな考えもなにもなかった。

そのことは、26年たった今でも、よく覚えているほど、絶対に間違いのないことである。

ただ、ぼくたちのことを応援してくれる中学生たちや、多くの吹奏楽ファンからは、やはり、ウインドは吹奏楽コンクールで活躍してくれるものという期待感が、日ごとに高まっていったのは事実ではないかと思う。

いや、そのように考えることが、いたって普通ではないだろうか。

そして、とりまく周囲の期待を背負うような格好で、Kウインドオーケストラは京都府吹奏楽コンクールに出場することを決めたのである。

中には、なぜ他人からの評価を受ける必要があるのかわからない、といった意見があった・・・・
あ、いや、このことを言っていたのは、実はぼくだったのですが、、、(汗。。

ぼくは、吹奏楽コンクールは基本的に好きではない。
それは、高校時代からの、まつわる経験や、いろんな思いをしたことを差し引いても、もたらされるものより、失うほうが多いのではないか、といった考えを当時は持っていたからである。
そのころの審査方法を、ぼくは信用していなかった。
そして吹奏楽コンクール自体、まったく評価していなかったのである。
・・・・
しかし、ぼく自身のそんなことはともかく、楽団として、出場を決定したのだった。
そして、その旨を京都府職域一般吹奏楽連盟(当時の呼称)に伝えたのである。


そのころからだったと思う、、、
ウインドを取り巻く環境とでも言ったらいいのか、、、
変化を感じるようになるのである。

いろいろ・・・なことが、発生していく。。。

(つづく)

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2006年5月22日 (月)

京都のKウインドオーケストラ創設⑫

その後、「協奏曲シリーズ」は、ぼくが在籍している間には4回ほどが、行われた。

第二弾は、クラリネット。曲はコルサコフの協奏曲。
ソロは当時のコンマスが担当した。
これも管弦楽譜のアレンジだった。
じつは、このときの演奏には、「 業界 」が注目していた。
というのは、ソロを務めた人、かなりの実力だったのだ・・・

クラリネットを村井祐児氏に師事。九州の芸大を優秀な成績で卒業し、将来を期待され、京都に凱旋してきた直後の、正真正銘のトップソリストだったのである。

もちろん当日は、大好評を博したのだった。

それと、ここで書いておきたいのは、そのコンマスさんの師匠である、村井祐児さんが会場にきていた事なのである。

かれは東京でのスケジュールの合間、はるばると京都入りされた。
文字通り、日本を代表するソリスト。
国内はもちろん、世界中を飛び回っておられた。
普通なら、ここにはこられないはずの人だった・・・
村井祐児さんは、楽器のダブルケースを片手に、いたって軽装だった。
そして、ウインドの本番が終わると、ステージ脇まですたすたと寄ってこられ、軽く談笑され、そのまま東京に帰って行かれたのだった。

師匠と弟子。
ぼくには、そのことが強いインパクトとして心に残っている一幕である。
なぜか30年たった今も、忘れられない思い出になっている。
その強い関係を、まざまざ見せ付けられた一幕だった。
・・・

そして第三弾は、、、
寺澤先生ご自身の登場となった。

先生は、ウエーバーのクラリネット小協奏曲を演奏された。

澄み渡った、奇跡の音楽。そんな感じが印象的なコンチェルティーノだった。
当日の演奏は、今でもよく憶えている。

京都会館での演奏会だった。
先生のヴーリツァーが、燻し銀のようにホール中に響き渡ったのである。

・・・・
先生のクラリネットは、一言で印象を表すならば「虚飾のない芸術」だった。

美しかった!
そして必要以上の表現をせずとも、それでも表情がビンビン伝わってくるような、主題のはっきりとした、そしてダイナミックで凛とした小協奏曲だったと記憶している。

冒頭のアタック、ウインドがff でアプローチしたあと、わずか3小節あとにpまで落とし5小節間、短くて長い待ち受け。
そのあと、有名なクラリネットのロングで始まるのである。

先生はそこを、なんと極限まで落とし尽くしたpppp・・・から入られたのである。

じつは、ここはクラリネットにとって、とても危険な個所である。
ひとつ間違うと音が消えてしまう難所、、、
また、‘ 通らない‘ 音だと2階席まで聞こえなくなってしまうのである。

もちろん、伴奏のぼくたちも、固唾を飲んでいた。

『 なんてすごい、、 』
会場に視察で来ていた、あるクラリネット専門家がつぶやいた。
その人が座っていたのは、じつは、2階席の最後席だった。
先生の音を、その席でじっと確かめていた。
そして帰り際、最高の祝福を感涙とともに贈ってくれたのである。

・・・・
高い技巧に裏打ちされた衝撃的なフレーズ進行。
そして圧倒的に美しいレガート。
的確なトーンコントロール。

優雅にも機微にも聞こえた。
胸を打つ説得力!

そんなアーテキュレーションは、ぼくにも想像できないものだった。


(つづく)

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2006年5月21日 (日)

京都のKウインドオーケストラ創設⑪

円山公園野外音楽堂での出演に続き、府の吹奏楽連盟から出演の打診が来たのは、発足から1年ちかく経過してからのことだったと思う。

それは、府の勤労会館での催しだったと記憶している。
さいわい、ぼくたちの演奏は好評を博すことができた。

そのときの曲は、このような構成ではなかったかと思う、、、

フェスティバルファンファーレマーチ
トランペット協奏曲(トマジ)
平和の祭り
スラブ行進曲

・・・・・・
ぼくたちは新たな目標に向かって、一歩前進を始めたのである。

じつは、この企画が決まったころ、寺澤先生から、ある提案がされた。

それは、『 順番にコンチェルトをする 』というものであった。
画期的な提案だった。
いまでこそ、各地の楽団がソロ曲を導入しているが、当時の関西はまだ、大阪府音楽団や大阪市音楽団などでその動きが出始めていたに過ぎなかった。
ほんとうに斬新な、特に京都の吹奏楽界ではまれなものであったと思う。

当時の京都の吹奏楽団には、まだ、クラシックを編曲して、協奏曲を演奏するという考え方はまったくといっていいほど、なかったのである。

だから、この提案自体、ほかに類のないものだったのである。

まして、ソロ演奏をレギュラー化することなど、誰も考えなかったことであろう。
いや、誰にもできないことだと思う。

それをあえて、行おうとすることは、本当に英断だったのである。
・・・・・・

そして、その記念すべき第一回のソリストは、あの、ティンパニを運んで自宅で保管しているトランペットさんだった。

曲は、トマジの「トランペット協奏曲」に決定した。

(後日訂正:正確には『エリクソンの「トランペット協奏曲」』でした。お詫びして訂正します)

本番は、ものすごい熱気につつまれた。
本場、イギリス仕込のブリティッシュサウンドが冴え渡った!
本当にすごかった!!!

感激の雨、あられ。。。
そしてお客様の拍手が、どうしても止まらなくなってしまったのである。

今でも語り継がれるほどの演奏。
日本を代表する若手プロによる歴史的名演が披露されたのだった。

(つづく)

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2006年5月20日 (土)

京都のKウインドオーケストラ創設⑩

中学校の吹奏楽部との合同演奏会は、ぼくがウインドに在籍した2年間だけでも、何回か行なった記憶がある。

場所とかはよく憶えていないのだが、その都度、好評を博していた。
生徒にもだが、そのご家族や学校関係者からも少なからず感嘆の声が上がっていたのである。

ぼく自身、中学生たちとの交流を通して多くを学べたし、また演奏できることも楽しかった。

というのは、ウインドにとっても貴重な出演機会だったと思うのである。

・・・
曲目は、中学校や高校などがそのころよく演奏していたものを含めて選んだ。
これ以外にもしたかもしれないが、思い出すものだけ記述する。。。

マスク
シンフォニア・ノビリッシマ
マイスタージンガー
エルザの大聖堂への行列
スラブ行進曲
平和の祭り
交響的断章
組曲惑星より木星
タンホイザー序曲
アルメニアンダンスパートⅠ
フェスティバルファンファーレマーチ
パンチネルロ
祝典序曲
交響曲第一番(ジェイガー)
アルメニアンダンスパートⅡ
カディッシュ
フェストマーチ
・・そしてコンクール課題曲など、、、

今、考えると、短期間の練習で曲を仕上げないといけなかったことと、練習場所のない重大さ。
それを考えると、つねにその板ばさみの状態であった。
なので練習はほぼ初見大会だった。
何回か通し練習してすぐ仕上げにかかっていた記憶がある。
月1~2回ほどで、それぞれ二時間の練習。

それでもぼくたちは本当に楽しかった。
音楽の趣味とは、こんなに楽しいか、という感じだった。
まさに、人生を生きていることへの感謝だった!

・・・逆算すれば、
一回の練習で3曲ずつほど仕上げていたのかもしれない。
いまさら思いだすが、やはり、若さ、が貴重だったと思う。

(つづく)

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2006年5月19日 (金)

京都のKウインドオーケストラ創設⑨

ウインドの演奏を聞いた人たちは、それがすばらしいものであり、予想を上回る、うわさ以上の楽団だったことを、たちどころに京都中に口コミで伝えていった。

実力が本物だったことがわかると、京都の吹奏楽ファンたちの次の関心は、ウインドが、吹奏楽コンクールでどのような活躍をするか、といったことに移っていった。
というのは、そのころ、京都から全日本吹奏楽コンクールに出場している楽団がなかったのである。
だからみんな、ウインドに注目してくれた。
そして、京都から、抜群の実力を持ったウインドが誕生したことを、心から喜んでくれていたのである。

一番、応援してくれたのは中学生たちだった。

ウインドのメンバーのなかには数人の中学教師がいた。
彼らは、京芸を卒業し、中学で音楽を教えていた。
そして、そのほとんどが、吹奏楽部の顧問を務めていた。

余談だが、このときのメンバーの教師のなかから、それ以降の京都府や関西吹奏楽連盟の幹部になる人が何人も出た。
また市教委で活躍し、教育行政に大きな功績を残していくのである。
そして、自分の教える中学を全日本吹奏楽コンクールに導いていく人もいる。
関西吹奏楽コンクールの常連校に育て上げる人も何人も出ているのである。
・・・・・

中学生たちは、自分たちの先生がウインドのメンバーであることを知ると、大喜びをした。
そして、先生に付いてきてウインドの練習会場の見学を積極的にするようになっていった。

見学では、ぼくたちの圧倒的な演奏に皆、びっくりして目を丸くした。
『 すごい!レコードを聞いているみたいや!! 』
感激の様子で聞いていた。
そして、練習が終わるとぼくたちにアドバイスを求めてきた。

中学生たちは、とても熱心であり、知識の吸収が早かった。
質問されると、ぼくたちもまた、親身になって教えた。
こうやって、領域を越えた交流が始まっていった。

そして、誰から言い出した訳でもなく、中学生たちとの合同演奏会が自然に開かれるようになっていったのである。

(つづく)

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